雅楽の歴史
飛鳥・奈良時代(黎明期)
平安時代(全盛期)
中世(衰退期)〜現在
平成12年9月13日 開設
@ 飛鳥・奈良時代(黎明期)
雅楽は最初、朝鮮半島から仏教とともに日本にやってきた。朝鮮民族は古来より音楽をよく好み、その様は後漢書・三国志にも記されている。高句麗の音楽は隋・唐時代の中国でも流行しており、水準の高いものであった。その朝鮮で育まれた音楽が日本に伝わったのである。
589年、長く南北に分裂していた中国が隋王朝のもとに統一されると、日本は遣隋使・遣唐使を送って、中国の文化を摂取するようになった。音楽も輸入され、これは「唐楽」と呼ばれて、後に雅楽の主流をなすようになった。
大宝元(701)年、大宝律令が完成し、日本は律令国家として第一歩とを踏み出した。大宝律令は二官八省制を採っているが、その太政官治部省に雅楽寮(うたまいのつかさ)が置かれた。これが日本で初めての本格的音楽機関であった。当初この雅楽寮の楽人は、渡来人が中心であった。またこうした公的な音楽機関とは別に、経済力のある寺院では独自の楽人を所有し、種々の法要で演奏させていた。
天平勝宝四(752)年に行なわれた東大寺の大仏開眼会では、雅楽寮や南都の諸大寺の楽人ににより雅楽が演奏された。この開眼会では、雅楽・伎楽が1日中演奏されたという史上最大規模の大法要であったようである。このとき使用された楽器・装束などは、正倉院に保管され現代に伝わっている。
この後、雅楽寮は律令国家の解体に伴い衰退していくことになる。
A 平安時代(全盛期)
雅楽寮は衰退したが、日本人の雅楽への関心は薄れることはなく、平安時代に入ると益々繁栄していった。そして、これまで外来の音楽であった雅楽が急速に日本化していった。
9世紀半ば、楽制の改革が行なわれ、楽器の編成も現在の雅楽と同様になった。そして10世紀になると楽所(がくそ)が成立する。楽所はもともと楽人の詰め所の意味であったが、次第に臨時の音楽機関となり、最終的には常設の機関へと発展していった。内裏に楽所が置かれたのは天暦二(984)年、そして興福寺・春日社(現・奈良の春日大社)など寺社の楽所が成立したのが、1000年前後とされている。またこれとは別系統の楽所が大阪の四天王寺で、秦河勝(はた・かわかつ)を租とする天王寺楽所が成立した。しかし天王寺楽所は散所楽所と呼ばれる賎民階層出身の楽人が多く、社会的に差別を受けていた。
雅楽の最盛期は平安中期、10世紀〜12世紀とされている。このころの雅楽は王朝文化の中心に位置していた。中国や朝鮮から伝来した曲だけではなく、日本人による作曲も多数された。また管・絃・舞など家ごとにつかさどる楽器が定まり、その家にだけ伝わる秘伝・秘曲も生まれた。
しかし雅楽はあくまでも貴族文化の一部であり、庶民とはかけ離れた世界を形成していたのである。このため貴族没落とともに雅楽も衰退した。
B 中世(衰退期)〜現在
中世において雅楽は全くふるわず、庶民とのつながりがあった天王寺楽所のみがなんとか命脈を保っていた。さらに応仁元(1467)年、応仁の乱が起こると京都は主戦場になり、そのため京都の楽人が四散し、雅楽は伝来以来最大の危機を迎えた。この危機を救ったのは豊臣秀吉であった。秀吉は京都方の楽人を補うため、天王寺楽所より楽人を召しだし、雅楽の復興とその保護を行なった。この結果京都・南都・天王寺の楽所は全く対等な立場となり、これ以後この3楽所は三方楽所と呼ばれた。
話は飛んで明治時代。明治三(1870)年、明治政府は三方楽所の楽人を東京に呼び寄せ、宮内省雅楽局を編成した。この頃、楽家(雅楽を代々受け継いでいる家)以外の者が雅楽を習うことは禁止されていた。こうした状況下で三方楽所の楽人ほとんどが東京に参向したため、近畿の雅楽界は人手不足になった。そこで明治六(1873)年、雅楽の一般人への教習が認められたのである。
現在、三方楽所は平安雅楽会(京都)、南都楽所(奈良)、雅亮会(大阪)となり、伝統を引き継ぎつつ一般の人を受け入れ教習している。他にも民間の雅楽団体も数多く、大学で雅楽を演奏するクラブがあるところもある。雅楽の演奏は神社や寺の行事や結婚式など、耳にする機会も以外と多い。このように雅楽は現在まで確実に伝わっている音楽なのである。
きゅーchanのほーむぺーじに戻る
This page is produced by Yuko Nakai.
Mail address: kyuukyuu@moon.co.jp